長浜ゆかりの人物

その他

菅原道真(すがわらのみちざね)

承和12年(845)-延喜3年(903)

学問に秀でた平安前期の公卿・政治家。生まれには諸説あるが、長浜市北部の余呉湖には“天女の羽衣伝説”が残されており、羽衣を奪った桐畑太夫と天女の間に生まれた子供が菅原道真であると伝えられている。

また道真が幼少のころ学問を積んだ菅山寺(長浜市余呉町坂口)には、道真が植えたという樹齢1千年の2本のケヤキが残されている。道真が寺を再興したことが銘文として鋳込まれた建治3年(1277)鋳造の「銅鐘」は、国の重要文化財となっている。

寺伝によると道真は幼名を陰陽丸といい、幼少より菅山寺の尊元阿闍梨(そんげんあじゃり)の元で勉学修行し、11歳の時に叔父・菅原是善(これぜん)の養子として京都へ上がったという。

天台宗の高僧相応和尚とは親交が深く、九州に左遷される際「死んだらこれで弔ってくれ」と、道真自作の像と鏡を手渡し、その形見の2品は現在も長浜市北野町に残されている。

西野恵荘(にしの・えしょう)

安永9年(1780)-嘉永3年(1850)

現在の長浜市高月町西野の真宗大谷派充満寺・住職 。

三方を山に囲まれ、大雨の度に余呉川氾濫による水害に苦しむ西野村を守るため、恵荘は山に長さ250mの排水用隋道(トンネル)を掘ることを提案 。天保11年(1840)から6年の歳月と1万余の人員、1275両(現在のお金で約5億円)の巨費を投じ、西方の山麓を掘り抜いて琵琶湖に排水する水道を完成させた。

掘削作業は石工たちや地元住民らが、ノミや鍬、カナテコなどを使って手作業で進め、岩盤の硬さや落石事故により困難を極めたという。

この水道は全長約220m、高さ約2m、幅約1.5mあり、「西野水道(にしのすいどう)」と名付けられた。また「近江の青の洞門」とも称される。恵荘が71歳で亡くなった時、彦根藩の井伊直弼は彼の功績をたたえ “上人”の称号を贈ったといわれている。

上人の偉業を讃え毎年6月に「西野水道まつり」が開催されている。

雨森芳洲(あめのもり・ほうしゅう)

寛文8年(1668)-宝暦5年(1755)

江戸時代中期を代表する儒学者。現在の長浜市高月町雨森に医師・雨森清納(きよのり)の長男として生まれる。通称は東五郎(とうごろう)。

17歳の頃、江戸で儒学者木下順庵(じゅんあん)の門下に入り儒学を学ぶ。新井白石(はくせき)・室鳩巣(むろ・きゅうそう)・祇園南海・榊原篁州(こうしゅう)とともに「木門の五先生」と呼ばれた。「文は芳洲、詩は白石」と称されるなど文章の秀逸さは木門随一で、順庵は「後進の領袖(りょうしゅう)」と評した。

元禄2年、順庵の推挙により対馬藩主宗義真(そう・よしざね)に儒官として仕える。その後中国語、韓国語を学び、当時の対朝鮮外交の最前線だった対馬藩で、外交実務や通信使との応対役、通訳の育成などに携わる。善隣友好のために奮闘し、国際交流の基本は『互いに欺かず、争わず、真実を以って交わる』と誠信の交わりを説いた。

現在、長浜市高月町雨森には「東アジア交流ハウス雨森芳洲庵」が作られ、芳洲の業績を顕彰(けんしょう)するとともに、東アジアとの交流と友好を目指す拠点となっている。

平成2年(1990)に当時の韓国のノ・テウ大統領が宮中晩餐会で褒め称えた唯一の日本人。

村上義一(むらかみ・ぎいち)

明治18年(1885)-昭和49年(1974)

現在の長浜市酢(す)に生まれる。第三高等学校 (旧制)、東京帝国大学法学部で学び、卒業後に鉄道院書記に任官。同院参事、鉄道大臣秘書官、神戸・大阪各鉄道局長等を経たのち、昭和5年から戦時下にかけて南満州鉄道理事、朝鮮運送・日本通運各社長を歴任した。

戦後は貴族院勅選議員、参議院議員(緑風会所属)となり、幣原(しではら)内閣(昭和21年)、第3次吉田両内閣(昭和26年)で運輸大臣となる。近畿日本鉄道社長、日本私鉄経営者協会会長、日本交通公社総帥、経団連顧問、大阪商工会議所顧問、東京滋賀県人会会長などの要職を務め、昭和39年(1964)11月、勲一等瑞宝章(ずいほうしょう)を受領。

長浜市名誉市民として、長浜城・豊公園に銅像が建立されている。

坂田金時(さかた・きんとき)

生没年不詳

幼名金太郎。源頼光(よりみつ)の四天王の一人。

鉞(まさかり)を肩にかついで熊に乗り、赤い肌に前掛けをした姿の剛力の童子の姿で知られる。 現在の長浜市布勢町で生まれる。丸々として元気な子供で、足柄山(あしがらやま)(長浜市七条町)の奉納相撲では熊と相撲をとった。

天延4年(976)源頼光が足柄山に通りかかり山に紫色の雲がたなびくのを見て、「あの山には立派な人物がいるに違いない」と、山里にたくましい青年を見つけた。頼光はその人並み外れて優れた顔つきを見て坂田金時と名付け召しかかえた。頼光の家来になった金時は、頼光が伊吹山に住む盗賊を征伐(せいばつ)した際には、自分の生まれ育った坂田の地を荒す悪者は許さないと意気込み、一番乗りの大手柄を立てたという。そうして金時は渡辺綱(つな)・卜部季武(うらべすえたけ)・碓井(うすい)貞光と共に、頼光の四天王に数えられるまでになった。地元では現在でも「坂田郷・足柄山・足柄神社・熊岡神社・姥(うば)が懐(ふところ)」などの金太郎伝説にちなんだ名が残っている。

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