長浜ゆかりの人物

経済人

大村彦太郎(おおむら・ひこたろう)

寛永13年 (1636)-元禄2年(1689)

江戸前期の商人。日本橋東急百貨店の前身となる白木屋の創業者。初代可全(よしあき)。

現在の長浜市五村に生まれる。幼くして父母を失い、母方の長浜の材木商河崎家で育つ。 その後河崎家の援助で京都に材木店を出店。万治元年(1658)23歳のとき江戸に出て小間物屋を始めた。寛文2年(1662)日本でもっとも創業の早い百貨店として、日本橋2丁目に呉服反物を商う白木屋を創業する。「商いは高利をとらず、正直に良きものを売れ、末は繁昌」をモットーに、正直と奉仕に徹する商法を実践してきた生粋の近江商人だった。

日本の都市災害史に残る大火災の一つ「白木屋大火」(昭和7年)では、和装のため下着は長襦袢のみだった女性たちが、ロープを伝って脱出する際に着物の裾を押さえようとロープから手を離し亡くなった。このことから白木屋では女性店員にズロース(洋風下着)を穿くことを義務付けたため、白木屋火災が女性の洋風下着を普及させるきっかけとなったといわれている。

中村林助(なかむら・りんすけ)・乾庄九郎(いぬい・しょうくろう)

生没年共に不詳

江戸時代中期の長浜縮緬の創始者。宝暦2年(1752)現在の長浜市難波町で、水害に悩まされる厳しい生活からの打開策として、丹後から縮緬織りの技術を導入して農閑期の内職として縮緬織りを湖北の農村に普及させた。その製品は長浜縮緬、浜縮緬と呼ばれ京都で売られるなど、彦根藩の全面的な保護もあって販路を拡大していく。

一時は京都での販売禁止されたが、彦根藩の動きもあって「直売せず年貢として一旦藩に上納し、藩が京都に売り出す」という、いわゆる年貢縮緬の形式を取った。この方法で宝暦9年(1759)京都市場に再び進出を果たした。翌宝暦10年(1760)には国産売出しの功労者として、林助、庄九郎の両名を織元に任命し、産出される浜縮緬の検査を行い印料を徴収する権利が認められた。その後、浜縮緬は長浜を代表する地場産業になった。

山岡孫吉 (やまおか・まごきち)

明治21年(1888)-昭和37年(1962)

現在の長浜市高月町東阿閉(ひがしあつじ)に農家の四男として生まれる。高等小学校を卒業後、母親が米一俵を売って作ってくれた3円60銭を懐に大阪へ出て、明治45年「山岡発動機工作所」を設立。ドイツでディーゼル博士と出会い、ディーゼル・エンジンの小型化に没頭、ついに昭和8年世界初の小型ディーゼルエンジンの開発に成功した。

「百姓の倅(せがれ)だから、百姓が喜ぶものを作っていく」というのが孫吉の信念であり、製造工場の拠点を郷里におき、湖北地方で農村家庭工場を展開した。

昭和11年山岡内燃機を設立、昭和27年ヤンマーディーゼルと改称した。教育や公益事業に多額の寄付を重ね、郷土の発展に心を砕き、地元長浜では「土地を離れないで工場で働ける。経済的にも潤った」と、今も尊敬と親しみを込めて、孫吉のことを「ヤンマーさん」と呼ぶ。

長谷定雄(はせ・さだお)

大正4年(1915)-平成18年(2006)

長浜市神照町に生まれる。長浜農学校を病のため退学後、日本和紡製品株式会社、和紡商事株式会社などを設立し長浜縮緬の発展に寄与。昭和40年(1965)には長谷ビルを設立し貸しビル業を始める。昭和55年(1980)の長浜城建設にあたっては、1億円を寄付。兄久嗣も5千万円を寄付している。また昭和63年(1988)、株式会社黒壁代表取締役に就任すると黒壁地域の観光発展に尽力。“黒壁スクエアをガラス産業の街に”というアイデアは、長谷氏の「ガラスでもやってみたらどうや」の一言に始まっている。欧州を視察した長谷氏は、若い役員を前にし「私たちが扱うのは、ガラスビジネスではなく、ガラス文化ビジネスなんだよ」と話した。平成8年、生家に国際文化交流ハウスを建築整備し長浜市に寄付。平成11年(1999)に長浜市名誉市民。平成18年(2006)11月没。

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