北大路魯山人 魯山人と長浜

 長浜で魯山人の書や篆刻にいち早く惚れ込んだのは、紙問屋河路豊吉です。
 大正2年以降、新築まもない安藤家や向かいにあった河路家に逗留することになった魯山人は、号を福田大観と名のり数々の作品を残しました。魯山人は、書や篆刻、刻字看板などを制作して暮らし、安藤家にある「小蘭亭」の天井画や襖絵を描いたのも、この時期です。長浜時代に、魯山人の人生に転機が訪れます。少年期にその絵を見て感激し、画家を夢見たほどの人物、日本画壇の大家竹内栖鳳との出会いです。長浜市室町にある柴田源七家は栖鳳の古くからの知り合いで、栖鳳がたびたび訪れていることを知った魯山人は、柴田家の食客となりました。憧れの栖鳳が柴田家を訪れると、魯山人は款印を彫らせてもらえるように頼みました。それを気に入った栖鳳が門下の画家や友人にも魯山人を紹介したことで、篆刻師としての名声を高める大きな要因になりました。
 魯山人は大正2年から5年にかけて長浜や京都、北陸の素封家に食客として暮らし、美術骨董品に対する鑑識眼や、四季折々に口にする美食への見識を深めます。のちに開設する星岡茶寮の成功も、それらの経験によるものと言えるでしょう。


らくがき
▲魯山人が描いた年輪模様

柱の金箔と年輪
 大正末頃(おそらく14年)、烏帽子を被り、生成の麻の帷子、袴姿の魯山人が安藤家に再訪した際に装飾したもの。当時それを見ていた安藤権一氏は「変な人が落書きしてやある」と言うと、祖母が「ほんなこと言うたらあかん。あの人は偉い人やで」と叱られた、と話しておられる。
 この柱は、档(あて)の木。非常に堅く、カンナがかからないために節が残っているという。
北大路魯山人の生涯
明治16年(1883) 京都上賀茂神社の社家北大路家の次男として生まれ、すぐに養子に出される。
明治41年(25歳) 朝鮮・中国に渡り、篆刻を習ったり古銘碑や古美術などを見て歩く。帰国後、東京で書と篆刻の商いを始める。
大正02年(30歳) 長浜の紙問屋河路豊吉がその才能に惚れ込み、食客として招く。この頃、号を福田大観と改め、書や篆刻、刻字看板などを精力的に制作。長浜市室町の柴田家で竹内栖鳳と出会い、款印を彫る。これが縁で、京都に居た富田渓仙(けいせん)や土田麦僊(ばくせん)などの画家たちと交わる。その後、北大路家に復籍し、大正7年に鎌倉に移るまで、長浜や木之本、金沢、京都などの素封家を食客として転々とする。
大正10年(38歳) 会員制の食堂「美食倶楽部」を発足。店の陶磁器に手づくりの料理を盛りつけた演出が、好評を得る。
大正11年(39歳) 正式に北大路魯山人と名のる。
大正14年(42歳) 後藤新平や徳川家達などの援助で、赤坂に「星岡茶寮」を開設。
昭和元年(43歳) 陶芸の窯場や住居、迎賓の場に当てるため、北鎌倉に私邸を建設。
迎賓用の棟を「慶雲閣」と命名。長浜の慶雲館(けいうんかん)の影響であろうか。
昭和 5年(47歳) 各地で「魯山人陶器展」を開催し、月刊新聞「星岡」を発行するなど、名声が一段と高まる。
昭和10年(52歳) 大阪星岡茶寮を開設。長浜の河路豊吉の恩に報いるため、その息子河路孝造を寮頭に抜擢する。ところが社長の中村竹四郎に突然解雇され、北鎌倉の窯場に籠もり、作陶に専念する。
昭和20年(62歳) 東京の星岡茶寮が空襲で焼失。戦後、北鎌倉の窯場を「魯山人雅陶研究所」に改称し、作陶を続ける。
昭和26年(68歳) パリの「現代日本陶芸展」で「柿の葉文組皿」が好評を博し、ピカソも感銘を受ける。
昭和29年(71歳) ロックフェラー財団の招聘により、アメリカやヨーロッパ各地で展覧会や講演会を開催。ピカソやシャガールと知り合う。
昭和30年(72歳) 文化財保護委員会から人間国宝に認定する旨の承諾を求められるが、あっさりと辞退してしまう。
昭和34年(1959) 76歳で死去。


清閑
▲清閑
篆刻看板「呉服」
▲篆刻看板「呉服」