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古翠園
作庭は布施宇吉の手によるもので、大正3年に完成。春にはつつじ、秋にはもみじが庭を彩り、巨石との組み合わせは絶妙です。
また「古翠園」という名は、「びわ湖の水(湖水)」にかけており、命名は名古屋出身の (1845〜1924)。
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北国街道と湖北
関ケ原合戦の後、長浜城が廃城となり石垣等が彦根城の資材として移されると、長浜は城下町から大通寺の門前町として栄え、江戸時代も半ばをすぎると商工業の町としてさらに発展し、旅人や近郊の人々の往来や荷物の運搬に大きなにぎわいを見せるようになりました。
安藤家の北80メートルほどにある辻は、長浜城の大手門から谷汲山華厳寺(岐阜県谷汲村)へと通じる谷汲街道と北国街道の交わる辻として、人々の往来も多く彦根藩の高札がおかれ、札の辻と呼ばれていました。
また、この北国街道の郡上町付近は、明治4年11月24日に日本で最後の仇討ちがあったところです。これは加賀藩中で勤皇派と佐幕派が対立し、勤皇派の中心人物である本多政均が佐幕派の多賀賢三郎に暗殺されたことに端を発し、多賀賢三郎は政均の家臣芝木喜内と藤江松三郎によって討たれました。(このあと明治6年に仇討ちは廃止になりました。) |
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紅殻格子(べんがらごうし)と虫籠窓(むしこまど)
長浜には、各所に近代商家の名残や面影が今も残っています。特に北国街道沿いにはその姿を多く眺めることができます。
近代商家の特徴として、「虫籠窓」、「紅殻格子」、「そで壁」、「うだつ」というものがあげられ、安藤家には「紅殻格子」と「虫籠窓」が見られます。
「紅殻格子」という名は、インドのベンガル地方で産出される黄土を加工して作られる“べんがる”という赤色の顔料を塗料に使用したことによります。また「虫籠窓」は虫かごに外観が似ていることからその名がついたとされます。 |
長浜町十人衆のおこり
今浜といった当地は羽柴秀吉が築城のおり長浜と改め、城下町として発展しました。長浜町は四十九町、十組に分けられ、組を代表する町年寄役たちは十人衆とよばれました。
十人衆に選ばれたのは本町の宮部、西村、下村、田辺、呉服町の安藤、大手町の樋口、大依、川崎、魚屋町の今村、舟町の吉川家でした。
江戸時代になると、樋口、西村、大依、宮部の四家が絶え、幕末には下村藤右衛門(藤七)、田辺伝太夫(九太夫)、安藤九郎右衛門、川崎源兵衛、吉川三左衛門(五助)、今村藤右衛門の六家となってしまいました。 |
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